主義主張にとらわれて、対立概念を排斥するのは愚かなことです。
そこには我らが認識できない対立概念を成立させる理由があるからです。
外に現れた姿を捉えて、理解したと思うのは愚かなことです。
そこには我らが認識できない内在する働きがあるからです。
つまり、認識の外側を捉えようとすることは大事だということです。
しかし、どんなに望んでも、我らは現在認識できるものしか見聞きすることはできません。
武術では、表に現れた動きを捉えて動くのは下策です。
鍛えられた素早い動きには、対処できないからです。
気功でも、表に現れた波長を捉えて対処するのは下策です。
その波長に対処しても、そこに至った原因に対処しなれければ、同じことを繰り返すからです。
我らの認識の外側は無限の情報で溢れています。
そのため、武術も気功も自らの認識を拡げる練功(鍛錬)に励むのです。
しかし、どんなに認識が拡がっても、全てを捉えることはできません。
ほとんどの人が、それを不毛と感じ、道半ばで立ち止まったり戻ったりします。
それでも練功を続けるのは、なぜでしょうか?
ほんの僅かでも認識できる世界が拡がったならば、その分だけ今まで認識できなかった歓喜と苦悩が世界に溢れていることに気づくことができるからです。
新たな歓喜を知ることは、自らの人生を更に満ち足りたものにします。
新たな苦悩を知ることは、自らの人間性を更に向上させてくれます。
それ以上でも、それ以下でもありません。