今回は【義の徳】についてお伝えします。

義とは、いわゆる正義のことです。
しかし、この正義というのが難物です。
これは対立的に理解されることが多く、正義があれば悪があるというように思われがちです。

そもそも、正義とは「幸せ」であることという主観的なものですから、立場によって正義の価値観は異なります。

では普遍的正義とは何なのか?

それを判断するためには、視点(抽象度)を上げましょう!

わかりやすくいうと、個人的視点や人として視点よりも上位概念の視点で判断するということです。

例えば、ケンカになってしまったとき、当事者同士の視点ではお互いに納得の行く結論を出すことは困難です。
これは互いに主観的視点が外れないからです。
このとき第三者の仲裁があれば、収まりやすいですよね。

つまり、正義は第三者の視点という当事者の主観から離れたところで判断される必要があるということです。

人間社会の正義というならば、法律がそれに該当します。
ただし、そのときどきの主観的価値観で定義されたものですから、普遍的正義というのは難しそうです。

では普遍的正義とは何か?

人よりもっと上位概念の視点から見てはどうでしょうか?

例えば、我らを存在せしめてくれている大自然であったり、さらには地球、太陽系、銀河系、大宇宙…という視点。

ただし、これも人として考えた時点で主観的になってしまいます。
何か考えている時点で主観的なのですから、結局のところ「何が正義であるかの判断はできない」としか言えません。

できることといえば、大自然や宇宙を成り立たせている法則やルール、道理といったところを少しでも見出し、そこに従って生きることだけです。

だからこそ、先人たちは哲学や宗教などの客観的基準を求めたのでしょう。

結局のところ、「社会的な幸福の最大化」を求めるということが、今のところ普遍的正義となりそうです。

さて、義の徳とは普遍的正義を修めることです。
普遍的正義を「社会的な幸福の最大化」とするならば、そのためには利己的な視点を捨てて、他者を受け入れ調和することが必要です。
「俺が俺が!」といってしまった時点で、どこかでぶつかってしまい、そこから何かしらの被害が発生しますから。

つまり、ぶつからずに調和する精神こそが、義の徳の根源であるということです。
(これはあくまでRENKOの解釈であって、一般的なそれとは異なります)


前回まで「信・智・仁・礼」をお伝えしてきましたが、今回の「義」で「五徳」が完結です。
この5つの徳を修めることで人間性を高めるのは当然なのですが、常にこの五徳を高度化していく事こそが本来目指すところです。
これにはゴールなどなく、際限のない高みを求めつづけるだけなのです。

高みに登れば登るほど、更なる高みが見えてきますから。

延々と登らなければいけないなんて大変だな…などと思うなかれ。
登れば登るほどに、自分が求めることは必然的に果たされていきますからd(^_^)