私は今も昔も常に成長することを求めています。

成長というと「今よりも良くなること」というように理解されることが多いですが、私の見地は異なります。
そもそも良いとか悪いとかいう概念は主観的なものですから。

私にとっての成長とは、その時々の価値観において良いにせよ悪いにせよ

「認識世界を広げ、なすべきことを実行していくこと」

です。

さらにいうならば、「自我の制約を超えて」という言葉が前につきます。

「自我の制約を超えて、認識世界を広げ、なすべきことを実行していくこと」

つまり、「主観にとらわれることなく認識力と実行力を高めていく」ことです。
(ここでいう認識力とは、無意識の認識も含みます)

そもそも、世界(宇宙)には制限はありません。
私達が世界と思っているのは、私達の認識により構築された世界です。
(認識により構築された世界は、情報空間と呼ばれたりします)

つまり、無限に拡がる世界が存在しているにもかかわらず、私達は自分の認識力によってしか世界として認識できないということを意味します。

「生涯成長期」

ミクロ的にもマクロ的にも無限に拡がっている世界を紐解いていくことだと私は思っています。

その結果、自らの求めるゴールが見えるようになるのは当然のことです。

しかし、重要な事はその先にあります。
個人としての視点(自我)を超えた、世界の中での役割の認識です。
その役割を「天命」といっても良いかもしれません。

しかし、「これこそが天命である!」という強固な意識が伴った瞬間から、天命から徐々に離れていってしまいます。
なぜなら、自我に囚われているからです。

是非考えてもらいたいので、あえて細かく説明するのは避けます。

さて、成長に必要な要素とは何でしょうか?

私が捉えている要素は

「仁の徳を保ちながら、智と信の徳を高めていくこと」

そして、智と信の徳を高めるためには

「仁智信の徳に支えられた礼と義の徳を持ってして世界を認識すること」

つまり、五徳のバランスを保ち高めることこそが、成長に必要な要素だと認識しています。
(ここでいう五徳とはRENKOで指導している概念です。一般的な概念とは異なります。)

当然ながら、昔の私がこのような視点を持っていたわけではありません。
今でも完全にこの状況を保ち続けられているわけでもありません。

しかし、常にそれを保つために、私を監視している私がいます。

このような状況は私が望んだことではありますが、今の認識世界においては「そう望まされた」結果にすぎないといえます。

物事の捉え方の視点(抽象度)が上がると、自分の意志として動いていることであっても、そういう役割を担っているにすぎないということが見えてきます。

釈迦の掌の上の孫悟空のようですが、視点が上昇するとそれが当たり前に感じられるのです。

「生涯成長期」

自らの世界は生涯拡がります。

そして、もしその世界を共有できるのならば、互いの世界は更なる拡がりを見せてくれることでしょう。

「生涯成長期」

そこから見える世界を、感じていただきたいと切に願っています。